2013年8月15日木曜日

2013.4.11例会 過去にしてはいけない・・・フクシマへの思いと関西からの行動―木幡智恵子さん

スピーカー 木幡智恵子  南相馬市→三木市在住 おひさまカフェ代表
日時・場所 2013年4月11日(水)大阪市立中央公会堂第6会議室

福島県南相馬市から主人と現在5歳になる娘と3歳の息子、4人で201159日に三木市に避難してきました。震災前までは家族4人での毎日が楽しい生活でした。

311日 富岡町
私は食材宅配の「ヨシケイ」で働いていました。南相馬市から1時間位の富岡町で、
いつも通りに配達してもう少しで終わるなという時に、携帯のすごい甲高い音に「あれ!」と思って車から降り道路の真ん中にいたらみるみるうちに立っていられないくらいになんともいえない、横揺れなんだか縦揺れなんだかすごい地震に襲われてちょっと静かになってきたかなと思ったら、又大きくなってくるんです。それが3回位続きました。そのうちにすごい大っきな雪、東北ではボタ雪ていうんですけど、降り注いできました。
会社とやっと連絡がとれ帰るように言われ、富岡から大熊町、双葉町、浪江町と通って行き、双葉町で8時位だと思いますが、あまりにも渋滞で動かないし車を止めて外にでて、身体を動かすんですよ、その時に、防災無線でなぜか「放射能が漏れる恐れがあるのでなるべく外に出ないで下さい」というのが延々と流れ続けたんです。「はいっ、何それ!」ラジオ聞いてるけどラジオではそんな話ないし、携帯でテレビ見ているけどそんな話はしてません。ずっと防災無線が流れてました、でもみんなそれどこれではないんですよ、帰るのに必死で。
その日は茶の間で布団を引いて子ども達を寝かせて朝までテレビをつけて観ていたんですけど、テレビで「原発が停まっていますが大丈夫です」って枝野さんが言い続いけていました、ほんとに大丈夫なんだろうか不安があったんですけど、朝になればわかるだろうと、余震続きでいつでも逃げれる状態にして、朝までずっと起きてました。

312日  二本松の実家に避難
翌日は会社に車を返して家に戻ると、大きい津波が来るから逃げろという防災車が走り、知り合いの家に避難させてもらいました。3時位にみんなでテレビを観ていた時に、「どかんっ」爆発したのを見、あー終わってしまったな・・・ていうみんなため息、あの原発をナマ中継で観た時にため息しか出なくって、なんか、どないしようっとかではないんですね「終わったね」というその言葉しかなくって。それから二本松の実家に避難しました。実家は8人家族私たち含めて12人です。それからは外に出ず家の中にいて、テレビは震災のことしかしていない、子ども達は小さいので自分たちが観たいまんがとかやっていない、天気が良いのに外に出れない、ストレスがたまって子ども同士の喧嘩が絶えなかった、夜泣きはするし。何ともいえない大人たちのピリピリ感・・・大人たちもストレスがあったし、毎日観るのは原発の報道、震災の話、「なんなんだろう!」て。私たちはどうしたらいいの。政府や東電は安全ですってしかいわないしなにが安全なん?東京におってなにが安全なん?放射能のある場所にいないだろうって思いました。
それからまた3号機が爆発「あれは核爆発だよな、テレビで水素爆発だと言ってたけど、3号機はあればどうみてもきのこ雲だよね」って話をして、家族会議をしました。ここにいてはいけない、今のうちに逃げよう避難しようということになり、私たちの家族は東京に行くと決めました。ここで仕事があるお父さんと妹と弟は残るというのでお母さんも残ることになり、1号機も3号機も爆発して2号機も4号機もあと爆発して、もう会えないんじゃないかって気持になって、私も出たくないっていったんですけど、「子ども達のために避難しなさい」て言われ、その日一日泣いてました。

東京→神奈川→静岡→三重→浜松 転々とホテル住まい
東京で知人宅を23日転々として、神奈川に行って神奈川から静岡行って静岡から名古屋行って名古屋から三重まで行って、そこを何泊かしながらホテル住まい延々と。でも離れて行けば行くほど福島の情報がなくなっていく。静岡が丁度いい場所だったんで浜松市に行きました。浜松市役所に避難者を受けいれていないか聞くと、原発の警戒区域から20km以内じゃなかった、2030kmだったんで該当しません。家が津波で流されたり地震で壊されてた訳でもないから証明がない、門前払いです。
それから本格的に福島から出ると決め、一旦福島に戻ることにしました。放射能がある福島、やっぱり帰りずらくて、行くのが嫌で福島という土地に入るのが嫌で。そこから延々と何泊かしながら埼玉行ったり栃木行ったりしながらそのうち主人が体調をこわし、福島に帰って家で休まないとと、4月に帰りました。帰った時に誰もいないんですよ、車で走ってても誰ともすれ違わない。強盗が多いというのを聞いてたんで、枕もとにバットをおいて、ちょっとの物音で起きるんです。ちょっとの物音で起きるのと余震も続くし、生きた心地がしなくて。ネットで避難先を探すんですけど案の定受け入れてもらえなくて。あきらめかけた時に20-30km圏内は緊急時避難準備区域にしますて国が定めたんです。そのとたん今まで断ってきたところが受け入れ始めたんです。なに!その時はラッキーとしか思わなかったんですが、後で考えたら怒りです。
三木市に避難先が決まり実家に報告に行きました。子ども達が病気になってはいけないから避難するって言いました。お父さんは「これから復興していくのに持ち家もあるし仕事もあるしいなさい」て言うんです。復興でなくて私は子どもたちと言っているのに、全然わかってくれない、結局解りあえないまま福島を出ました。ただ実家の言い分もわかります確かに復興していくんです、でも子どもの健康を考えることが一番だと思うんです。

三木市の生活
三木市に5月9日に入りました。住宅の家賃は5年間無料で住めるようにしてくれ、保育も優先的に入れてもらい、主人は7月末に仕事をみつけて正社員で働き始めました。私は次の年の4月から市役所で震災枠で受け入れてもらって仕事させてもらってます。ただ周り近所、地元の人たちとの接点がなかった、関東方面での福島に対する色んな話を聞いて、車で出かけるのも嫌だったし福島から避難してきたとは絶対言えなかったし、なるべく地元の人と関わりをもたないように生活をしていました。そんな折隣の人が私たちが福島から避難してきたのがわかってからすごくよくしてくれるんです、それで安心しました。買物に行って福島ナンバーの車をみて寄ってきたおっちゃんが「福島からきたん?」「知り合いだれかおるん?」「頑張れよ」て言ってくれました。関西の人は違う、すごい暖かいて思って。それから自分の福島ナンバーの車でどこでも出かけたし、接点がみつかるとほんとは福島から避難しているんですと言うようにして、いろいろ交流をしてきました。
私が体調をくずして病院に行った事がきっかけで、地元の人が子ども達をみてくれるボランティアの“ファミサポ”というのがあるよと教えてくれ、初めて社協に登録しました。「ファミサポに登録している人もう一人います」て言われたんです。千葉からの自主避難の人だったんですね。その人とつながりを持たして欲しいと頼みました。三木市のカフェでお茶してその人の話を聞きました。その人は今いるところの家賃も払っているし、旦那は千葉に残って仕事しているし家は建てたばかりでローンも残っているし子ども達は保育園と幼稚園と小学校、二重生活だって言ってました。その時自分は紙を持ってて無料で今の住宅にいて保育園無料にしてもらっているのを言えなくて、「そうなんだ大変だね、うちも大変なんだ」て。その話を聞いてから、なんで紙1枚の差でそんな温度差があるのと。
それから兵庫県に電話して千人いるという避難者を一同に集めてほしいと要請しました。するとその話が県から三木市にいって三木市から社協にいき、社協が震災から1年経った311日ちょうど日曜日、避難者の集まり会を開催されました。

避難者の声を届けたい
そこから毎月集まるようになって、東京、千葉、郡山からの避難者など自主避難の人も増えて来ました。これからは自主避難、母子避難している人を助けないといけないよねって話を集まる度にするようになったんです。なんとか国まで自分たちの思いを届けようと、『おひさまカフェ』を去年の9月に起ちあげました。しかしなかなか出て来てくれない避難者がいっぱいいます。どんなにがんばってもコアメンバーが10人位、登録メンバーが30人いるかいないか、まず兵庫県内のつながりを作らないとけないと、三木市内でやっていたのを、明石、加古川、高砂、北播磨、東播磨や近辺の市町村を借りて移動式のおひさまカフェにしたり毎月いろんな場所でやるんですが、やっぱりなかなか出て来てくれない。
去年6月に、『原子力子ども・被災者支援法』が法律で定められたんですが、いまだに予算がついていない、内容も全然決まっていない。ちょうどいい時期だって弁護士さんが言ってくれて、予算をつけるとか法律ができる前にいままで出してきたことを政府に送りましょうと。2月に法律の勉強会を企画し兵庫県の避難者に送ったんですけどやっぱり集まったのは30人位、初めての人も何人かいたんですけど、それでもその法律を聞いて10人位のグループ作って話をし、それを弁護士さんがまとめてくれ3月末に郵送してもらった。
避難者当事者が話をしないと、どうして欲しいとか言わないと誰もわからないじゃないですかと私は思うんです。避難して来たからこそ今してほしい事を、今後これからして欲しい事を、自分たちの声として出して行かないとけないと。


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